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ひと・もの・ことをつなぐ。創造性の光をむすぶ。


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ひと・まち・アートを語り合う SCARTS CROSS TALK

札幌にゆかりのあるアーティストや、
文化に関わる活動をされている方を
ゲストに迎えて行う、
札幌市民交流プラザスタッフとの対談。
ゲストの活動の紹介とともに、
札幌の文化芸術活動のいまとこれから、
そして、札幌市民交流プラザに期待される
役割について語ります。

ここから本文です。

本稿は、2020年11月3日に行われたトークイベントの内容をSCARTS CROSS TALK記事用ダイジェスト版として編集しました。

司会
本日はご来場いただきありがとうございます。西2丁目地下歩道映像制作プロジェクトのアーティストトークを行います。よろしくお願いします。西2丁目地下歩道映像制作プロジェクトは、さっぽろ地下街オーロラタウンと札幌市民交流プラザをつなぐ「西2丁目地下歩道」を舞台にした映像制作のプロジェクトです。地下歩道に備えつけられた4つのプロジェクターからなる横長のスクリーンと、歩行空間の特殊性を生かしながら、毎年1組ないし2組の作家に制作を依頼して、この場所のための新作の映像作品をつくっていただいています。
本日ご登壇いただいている大木裕之さん、野口里佳さんの作品は2019年度に制作され、この地下歩道で上映されています。本日は、作品制作のプロセスや普段の作品について、お話をしていただけたらと思っています。また、聞き手として、松井茂さんをお招きしています。松井さんは現在、情報科学芸術大学院大学の准教授として教鞭をとっていらっしゃいますが、映像表現やメディア表現に詳しく、公共空間での表現についても研究をしていらっしゃいます。また、詩人としても活躍されています。作家お二人の話を伺いつつ、さまざまに話題を広げていただければと思っています。では、松井さん、よろしくお願いします。

1

極私的公共空間への誘い

※1 生命に関する事柄の政治学

松井
こんにちは。ご紹介いただきました松井と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
はじめに僕が、西2丁目地下歩道映像制作プロジェクトをとても面白いと思った点についてお話しさせてください。2019年度の委嘱作家として大木さん、野口さんが選ばれています。お二人とも非常にプライベートといいますか、極私的な視点から普遍的な作品を形成するタイプの作家といったらよいでしょうか。松井みどりがキュレーションした「夏への扉 マイクロポップの時代」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、2007年)で共演していることからも、そういった性格を指摘しても間違いではないと思います。そういう作家たちが、明確に歩道という、公共空間を展示会場として上映するということ自体、面白いと思ったわけです。「個人的なことは政治的なことである」という言葉があります。「政治的」といっても政党とかそういったことではなく、人間が生きる上でのバイオポリティクス(※1)であるという言い方がよいでしょうか。生存に関わる主題、要するに実存が二人の作品には流れている。大木さんも野口さんも、個人的な目線を保ったまま強い作品をつくる作家です。その二人の作品が、こうした公共空間に流れるということが、衝撃的。これはけっこう危険な選択でもあって、僕はワクワクしてしまうわけです。それに作品があると通路なのに立ち止まっちゃうじゃないですか。西2丁目地下歩道は通路だから立ち止まってはいけないはずで、こんなに立ち止まらざるをえない作品を展示するって、素晴らしい企画ですよね。

すこし話がずれますが、昔から、日本は広場がない国だと言われています。1969年に新宿駅西口地下広場(設計:坂倉準三、1966年)で、ベトナム反戦運動の若者たちがフォーク集会をはじめ、まさに広場を広場として使いました。そうやって広場が広場としての機能を果たしたときに何がおこるかといえば、行政は広場の名称を取り下げて、「新宿駅西口地下通路」という名称に変更したんです。通路になると道路交通法で警察が規制できる。人が座り込んだり、集会ができなくなるんです。たぶんこの国は、広場が機能する状態を牽制してきたのだと思います。つまり、日本には広場がないのではなくて、必要としてこなかった。実際それは、行政だけの問題でもないと思うんですね。市民という意識がそもそもないのかもしれない。それは表現をめぐるさまざまな問題をみていても、両論併記しましょうとかいって、ないものもあることにしてしまう。実際には話し合いなんてなくて、事なかれ主義なんです。そういう意味では、空間をパブリックに使う、通路に作品を置くというこの企画は、芸術上の問題と同時に、市民社会を意識させる意味でも重大なことだと思います。またエフェメラルな(はかない)表現を主題にする個人作家が、こういう場に身をさらすことにも感動を禁じ得ない。あとは観衆がこれに応えなければいけない、と僕は思います。
そして実際に通路で作品を拝見させていただきました。通過していく人も多い空間ですが、そういう人の時間も含め、複数の時間が存在していることの意味を考えました。映像作品のもつ時間もあれば、僕のように遠隔地からここに来て滞在する時間もある。時間幾らで時間と経済が一緒に消費されていく広告的なイメージではなく、その場所のためにかけがえのない時間が、作品としてつくられているこの企画、非常に面白いです。企画されているSCARTSの方々のキュレーションに、敬意を表したいと思いました。ちょっと大仰に話してしまいましたが、言わないわけにいかないと思いましたので、失礼しました。

※1 生命に関する事柄の政治学

2

写真機がイメージを撮り、
デジタルカメラが映像を録りはじめる

作品1 野口里佳《潜る人 #1》1995年

松井
ではまず、野口さんから、今回の作品のみならず、写真家として映像をつくるようになった経緯をお伺いしていければと思います。よろしくお願いします。
野口
はい。ではまず自己紹介として、これまでどんな作品をつくってきたのかを少しプロジェクターでお見せして、その後、今回の映像作品にどのように取り組んだのかをお話ししていけたらと思います。これは私の初期の作品になります。「潜る人」(作品1)という1995年の作品です。私は1971年生まれで、埼玉県の大宮市で育ちました。大学生の時に写真で作品をつくり始めて、長い間工事現場の写真を撮っていました。その後、何か新しい作品を始めようと思っていたときに、ワイドラックスというパノラマのカメラをたまたま人からいただいたので、そのカメラを持って、東京と千葉の間を走っている京葉線という電車に毎日乗って、降りた駅から海まで歩くということをやり始めました。ある日、千葉みなとという駅で降りて歩いて行くとそこに造船所があって、造船所の中をウェットスーツを着たダイバーの人が歩いていたんです。気になって、その人の後ろをつけていくと、その人は造船所の中から東京湾に入っていったんです。真冬でしたし、キレイな海でもない。「こんなところに入っていくなんて!」と思ったんですが、でも同時に「この先に何があるのかな」と思いました。そこから、ダイバーの作品を作ってみようと思って、ダイビングスポットに通い始めました。でも、それがなかなか形になっていかなくて。これは私自身がダイビングをして、初めて海に潜った瞬間の写真です。(作品2)
松井
95年頃は、僕がちょうど美術を見始めた頃なのですが、そのときに鮮烈に印象に残ったのが、この「潜る人」というシリーズの写真でした。この作品は、なんだかドラマチックに見えるんですが、演出をして撮っているわけではないんですね?
野口
演出ではないんです。
松井
ダイバーを追いかけていたら、自分も潜ることになった!
野口
そうですね。潜ることになってしまいました。最初はダイバーを捉えようと色々なダイビングスポットを回っていたんです。そこで、船に乗ってダイバーの人たちを追いかけたり、海から上がってくるところを待ち伏せたり、いろんなことをしたんですけど、私にはその先がいつまでたっても見えない。それで自分で潜ってみたという写真です。ここに写っている人は、私のダイビングの先生です。このときは展覧会が迫っていて、「潜る人」という案内状もできているのに作品がまったくできていないという状況だったんです。もう間に合わないから、「とりあえず沈めよう」みたいなことになって。たくさん重りを付けてもらって、潜ったというより沈んで撮ったという写真ですね。私の場合、自分が「謎」だなと思ったことを探求して進んでいくうちに、いつのまにかいろいろなことをやることになってしまう、という感じです。
松井
なるほど。僕は勝手にものすごくSF的な物語を読み込んでいました(笑)。謎には違いないけど。

作品2 野口里佳《潜る人 #4》1995年

作品3 野口里佳《潜る人 #9》1995年

野口
これは私が潜る練習をしていたプールの底の写真です(作品3)。この写真をプリントしたときに、何となく、自分がたどり着いた場所が見えた気がしたんです。それで、この作品の続きを撮ろうと思って次は富士山に登り始めました。
松井
水の底の続きが富士山?
野口
はい。その先にある宇宙に到達したいと思ったんです。当時の私にとって、自力で行ける一番宇宙に近いところが富士山の山頂でした。これは富士山を駆け下りていく人を、私が見ている写真です(作品4)
松井
海に潜るときも一緒に潜らないといけないし、山に登るのも一緒に登らなきゃいけないわけですよね。大変だ。
野口
そうなんです。作品から、すごく多趣味な人だと思われることがあるんですが、全然趣味ではないんです。これは私が最初に映像作品を撮るきっかけになった、「夜の星へ」というシリーズです(作品5)。品川にカメラメーカーのキャノンさんが運営しているギャラリーがあるんですが、そこで展覧会をすることになったときに、キャノンさんが最新のデジタルカメラを貸してくださったんです。私は、普段はフィルムカメラで作品をつくっているんですが、その時に初めてデジタルカメラを使って作品をつくってみようと。でも、なかなか作品になっていかなかったんですね。キャノンさんからは、最終的にはキャノンのプリンターを使って作品をつくってくれれば、カメラは何でもいいとも言われていたので、「やっぱりフィルムでやることにしました」と言ったら、えっ?と驚かれてしまって...。1年間もカメラをお借りしていたのであたりまえなのですが、「1枚ぐらい何とかならないでしょうか」となって。それで、フィルムカメラにではできないこと、デジタルカメラじゃないとできないことって何だろうと考えて、映像作品をつくってみようと思ったんです。私は2016年までドイツのベルリンに住んでいたのですが、自分のスタジオから自宅に帰るまでの道のりをフィルムカメラで撮った「夜の星へ」というシリーズがあって、それと同じことを映像でなぞった、というのが私の最初の映像作品です。
松井
デジカメっていうのは、カメラの形をしているけれど、いつの間にか動画も撮れるようになっていましたよね。
野口
そうなんです。なので私の場合も映像を撮ろうと意識したというより、デジタルカメラができることってなんだろうと考えていったら、映像作品になったという感じですね。私はフィルムカメラでもいろいろなカメラを使うんですけれど、いつも、「このカメラが持っている能力は、もっといろいろあるんじゃないか」と考えてしまうんですよね。カメラの欠点を伸ばしてあげたいとか、まだ使われていない能力を発見してあげたいとか。まあ、デジタルカメラで映像を撮るというのは特別なことではありませんが。今回はこの地下歩道のお話をいただいて、まずは最終的にどんなところで映像作品を流すのか、札幌へ下見に来ました。地下通路に来たらいきなり四つの画面だったので、四画面で見せるものをと考えていくうちに、20年くらい前に札幌に来た時のことを思い出したんです。

作品4 野口里佳《フジヤマ #1》1997年

作品5 野口里佳《夜の星へ #39》2016年

松井
今回のように、これくらい限定的で特殊な枠組みを、お題として提供されて作品をつくるということは、過去にもありましたか?
野口
展覧会など、ゴールみたいなものはありますが、四つの画面で見せることが決まっている、というのは初めてです。それでいろいろと考えているうちに、昔札幌に来た時に、一人でナイタージャンプを見に行った時のことを思い出したんです。地下通路って意外と明るいんですよね。あの明るさの中で、映像でどんなことができるのかなと考えた時に、真っ白な雪の中からスキージャンプで人がフワッ、フワッと向こう側からやってくるような作品がつくれないかなと思ったんです。それでSCARTSに相談をしているうちに、札幌のスキージャンプの少年団に連絡を取ってもらって、今年の始めに撮影させてもらうことになりました。ただ、今年は暖冬であんまり雪が降らなくて、なかなか実際の練習ができなかったんです。私自身もなかなかスケジュールを調整できず、結局1回しか撮影できるチャンスがなくて、最終的にそれは作品にはならなかったのですが、でもいつか作品にしたいと今でも思っています。その時の撮影はなかなか大変でした。私は沖縄に住んでいるんですが、冬の北海道がすごく寒いことは分かっていたつもりで、防寒だけはかなりしっかりやって来たつもりだったんです。でも雪のことが全然分かっていなくて、防水機能のないダウンを着てきたんですね。ちょうどジャンプの大会を開催していた余市町に撮影に行ったんですが、すごい雪で、しかも少し暖かかったのでもうビチャビチャ。ダウンがペシャンコの布団みたいになって、ブルブルブルブル震えながら撮影をしました。その後も雪があまり降らなかったり、コロナのこともあったりして、札幌に来にくい状況になってしまったので、それならば、自分がいま住んでいる沖縄で作品をつくってみようと思い、沖縄の山に入って撮影した作品が、現在地下で流しているものです。
松井
大変な撮影でしたね。作品を見て、僕が意外だったのは、音のつくりこみです。野口さんの作品にこれまで感じていた静謐さというか、海底にも富士山にも、僕は音がないと思ってきたわけです。写真に、直接的な意味で音がないということは当然のことですが、野口さんの映像でサウンドデザインを意識するとは想像していませんでした。
野口
そうですね。今回は音が重要な要素になっていると思います。たしかに以前の映像作品はほとんど音が入っていなかったんですが、去年、参加した宮城県のリボーンアートフェスティバルで、私が展示をしたエリアのテーマが「目をこらす 耳をすます」だったんですね。それで、目をこらさなければ見えないもの、耳をすまさなければ聞こえないものを意識していたら、急に音が聞こえるようになったというか、急に耳が開いた感じになって。これが今回の地下通路で流している映像作品の入り口になった作品です(作品6)。鮎川って、ものすごく虫が多くて、いろんな虫にいっぱい刺されたんです。蚊とかダニとか、最後はヒルにまでかまれて..。だから撮影のために虫よけスプレーをたくさん使ったり、長靴をはいたり、長靴とズボンの間にガムテープを貼ったり。でもいろいろと虫対策をやっているうちに、虫を避けていてはいけないんじゃないかという気持ちになって、こんなに虫がいるならば、虫と向き合おう、虫の作品をつくろうと思って、アオムシの映像作品をつくったんです。この映像の真ん中に映っているのがアオムシなんですけれど、それ以外にも、空中って、小さな虫がいっぱいいるんですね。普段生活しているとあまり見えないんですが、それをカメラによって出現させる。そういうことをやりたいと思ってつくったのが今回の札幌の作品です。

作品6 野口里佳《アオムシ》(映像より)2019年

松井
映像では虫や、葉っぱがぶら下がっていたり、蝶が羽を開いていたりします。おそらく聞こえる音は、被写体それ自体の音ではなく、映像が撮影されている環境なのですが、むしろ画の外にあるさまざまな「声」が豊かに聞こえてくるという印象なんですね。写真の場合でも、見えないものを撮る。画面の外を撮る方法があるのかもしれません、ということを倒錯的に考えたくなるようなことが起こっている気がしました。つまり、映像の作品になった時に、画面の中に見えないものにも音を通じて、寄り添うことができるのではないか?録音にうながされて撮影しているのではないか?というような、そこにある野口さんの身体を感じさせられるのが面白いっていうんでしょうかね……。
野口
写真の場合は、あくまでも私の場合ですが、暗室の中で作業をしているうちに、何かをつかみ取る、みたいな感覚があるんですが、映像の場合は撮影している時に何かを感知するところはあるかもしれません。最近の自分の課題としては、写真や映像によって何かを出現させたいと思っています。
松井
出現とは!?
野口
そうですね。例えば、ここに重力がある、けれど見えない。そういうものを、目に見える形にしてみたい。そういうことを考えている中で、こういう作品になっているのかな。
松井
映像の構成はどのように考えられたんでしょうか? 四つの場面の時間で12~13分間の系列っていうこの枠組み、本来、写真にはない時間ですよね。
野口
時間軸があるというのは、今までなかったことなので、すごく不思議なんですよね。構成とまで言えないと思うんですけれど、横に並べて、音を重ねて、同時にいろいろなことが展開していくように繋いでいきました。私の場合は本当に、やりながら分かっていく、分かるためにやる、みたいなところがあるので、手探りで「ここまではどうにか分かった」みたいな感じです。

3

情報の混乱と認識障害
見えないものをどう出現させるのか

野口
大木さんは頭の中でどれくらい、どんなふうに構成しているんですか?
松井
前置きでちょっと補足しますが、さきほど3人で雑談をしていたときに、大木さんはずっとシチュアシオニストの話をしていました。ギー・ドゥボール(※2)とか、「状況の構築」という言葉が出ていたんですね。それを聞きながらですね、野口さんのいまの話もそうなんだけど、大木さんにしても、自分が主題を追っていくことで、自分がその関心なり状況に対して行為をしていかなきゃならなくなりがちな作家だよな、と思っていました。極私的なんだけど、公共性をもっていっちゃうっていうのかな、個人的な展開が作品になっていく。それはだから、写真作品だとか映像作品だとかっていうメディアの問題をも乗り越えて、アートとして、作品としての出来事になってしまう。そんなプロセスを、大木さんとはこれまで少なからずつきあってきて、思うんですよね。それは、人生でそんなにしょっちゅうあるようなことでもないよな、って、僕には興味深いことなんですよ。
大木
そうですね。僕はいろんなことをやってるので、今回の映像に関しても、僕の中では、いろいろな要素があります。いま松井さんが少しお話ししてくれましたが、僕自身は特に今年に入ってから、ネオシチュアシオニストエゴイスト2020宣言というのに基づいて、状況に対してのアクションとして、いろいろなことをやっています。シチュアシオニストというのは、1950年代から60年代にかけてフランスを中心に活動した人たちなのですが、いまの現実はシチュエーションがだいぶ違うので、僕は“ネオ”と言っています。
僕は、いまは言語の問題が、大問題だと思ってるんです。しゃべり言葉とか、コミュニケーション。それが対比されるのはSNSだったり、メディアだったりします。情報も溢れすぎているし、個人的な会話から何から、いま決定的なところに来てると思っています。そしてその大問題な状況は、急にではなくて、もうずっと続いています。「あ、なるほどね」と思うもの、納得や共感だけが、世の中で問題になっていると思うんです。SNSで、ホントもデマもいっしょくたに流れている。情報の混乱は、映像の氾濫に似ていて、みんな流れていってしまうので、ちゃんと認識できずにいます。認識障害と言っていい。今回の「トシ シ」の中でも「情報パンデミック」という言葉を使ってますけど、コロナのパンデミックは、コロナウイルスのパンデミックの問題ではなくて、情報がもう、僕ら全員にパンデミック状態に感染して回っているという状況下なんだと思うんです。
僕自身は、認識障害をずいぶん前からテーマにしていて、もうずっと考えています。僕の制作は、認識障害とどう付き合っていくかっていうことと、同一の作品だと思うんですね。それに、「トシ シ」は絶対に、通路で見ても全貌なんて把握できないわけですよね。だから、あの通路で流れているということの価値も、僕にはすごくあります。でも、ああいうふうに流れていても、やっぱり人はほとんど見ないで通り過ぎてしまう。だから、そこに流れているという状況も含めて考えた上で、今回の作品をつくっているし、僕自身は、やりたいことはある程度はやれてるし、実現したかったことができているなという手ごたえはあります。それはさっきお話しした認識障害とか、ネオシチュアシオニストエゴイストっていうことにも絡んでいるんですね。あの4面のスタイルっていうのは、僕的にはすごく、自分のやりたいシチュエーションと合うというか、奇跡的でした。

松井
認識障害っていうのは、つまり図と地を見誤ったりする、あるいは意図的にその認識の際立ちみたいなところに意識を向けるということだと思うんですよね。大木さんは、なにかその際立ちに注目していって、今回の「トシ シ」というタイトルや言葉にもそういうことが現れている気がします。むしろ図と地のどっちにも行ったり来たりするっていうのか。抽象的な話で申し訳ないんだけど、その際立ちの部分をみつけると、それを執拗に撮るんだよね、大木さんは。で、それを膨大に積み重ねていく。映像だけじゃなくて、やっぱり言葉や音でもそういうことで攻めてくる。なんかちょっと攻めてくる感じがあります。その認識の際立ちへの執拗な意識が、ピックアップされて記憶として組み上げられていく。それをチューニングしていくと、意識の関数みたいに出来事を預言できるのではないか? まだ撮られてないものを記憶であるかのごとく、撮るのを待って、それが実現したところで、作品は完成しているらしい。SCARTSの担当の方から撮影秘話を聞くと、そんな気がするんですよ。
ちょっと無理のある話で接続しますと、僕は1968年前後の時代のアートシーンを研究しているのですが、磯崎新という建築家がいますね。彼は、1968年に、ビジョナリーって言葉でもって、独特な方法論を語るのです。この言葉はただの夢想みたいにとらえられるのですが、あらゆる制約条件を外して考えられうることを幻視するっていうことなんですね。シミュレーションするわけです。磯崎自身の言葉を引いておくと、「建築に与えられる現実的な条件としての構造上の完結性も、具体的に使用されることも、あるいは目的さえも明瞭にしなくていい。同時に観念の内部が錯綜して、現実的な要素と非現実とが、過去と未来とが、入り乱れても、それをそのままの状態で提示できるのである。なまなましい観念の、まさに発生状態そのものを定着することが可能になっている」ということです (「観念内部のユートピアが都市の 地域の ターミナルの そして大学におけるコンミューンの構築と同義語たりうるだろうか」『都市住宅』一九六九年一月号)。
なんのこと言ってるかわからないかもしれませんが、シチュアシオニストとかが、1968年の5月革命とかのときにもった戦略のひとつが、この磯崎の言葉にあると思ってもらって良いと思います。こういうことを意識して、大木さんの作品をとらえてほしいなと、僕は考えています。
大木
完全にそうですね。記憶って言うと、それぞれの領域という感じがしますけども、かなり普遍的なことでもありますよね。記憶が何かというのは、僕自身も常に考えてます。
野口
大木さんは、ここを撮ろうとか、撮るタイミングはどうやって決めているんですか。
大木
僕は映像もそんなにたくさんは撮らないんですよ。むやみに撮らないし、撮るポイントをかなり厳選してるんです。でも映像というのは、たった1秒撮ったって、ものすごい情報量がある。写真で考えてもそうだよね。1月の最初に、モリヒコ(※3)のケーキの映像を撮ってたんですけど、モリヒコに行く度に撮ってるわけじゃないんです。たぶん、最初に行ったときは撮らなかったと思うんです。あんまり覚えてないんですけどね。でもそれは、ノートに書いて整理したりして、リマインドしていきます。組織していっています。記憶をね。ノートを読み返して、「あぁ、モリヒコ、いつ入ったっけ?」ってリマインドして、それが映像に記録されれば、映像を編集していくときに、またリマインドしていくわけ。そうやることで、追えてるんですよ。そしてそれをどのプロセスで本編に入れていくかというのは、編集作業のときにまたリマインドしながら繰り返し考えていくんです。 SCARTSのモリヒコって、僕はすごく気にしているんですけれど、それは、ここで仕事をする以上は、それをある接点として考えてるってことなんです。モリヒコは何を考えているのかとか、発信の仕方、どういう商品が売れて、現実に札幌の中でどういう存在なのかも含めて。それは別に僕がモリヒコを理解したいということではなく、焦点にしてるんですね。そこに光をあてている。そういった、広い作用のことを考えてます。それに、たとえば、僕が人に何かをおごったりするのは珍しいんですけど、今日このイベントの前に、松井さんたちにコーヒーをおごったんですね。でもある意味、イベント直前のこのタイミングでおごったってことは僕にとっては大きくて、それをそのときの状況や関係性も含めて記憶として覚えますよね。今日はカメラを持っていなかったんですけど、持っていたとしたら、撮るタイミングと撮らないタイミングの中での、どちらかになりますよね。そしてこの記憶は、例えばこのノートに書いてます。それは、僕の記憶です。でも例えば、いま僕がここで「おごったね」って言ったことが、今ここにいるお客さんの中にも、知らないうちに記憶に残っていて、僕とその人が再会したときに、「あのとき大木さん“おごったね”って言ってましたよね」っていう会話になるかもしれないし、もう二度と思い出さないかもしれないけれども、でもそれも分かんないですよね。すごく時間が経ってから、「あれ?」ってなるかもしれない。そういう、作用みたいなところもです。 この映像やメディアや認識障害、あと情報パンデミック、記憶も含めたその辺りの領域が、やっぱりいま、ものすごく問題というか、もう見えない状況になっています。でも、捉えきれない中ではあるけれども、だからこそ電波みたいに影響するのが大事なんだと、僕は思ってます。さっき里佳さんの制作の最初の頃から、いまの通路の作品に至っている流れを見ることができて、僕もすごく納得しました。アートの場合、やっぱり表現の仕方、出現のさせ方で全然変わりますよね。里佳さんの話にもありましたけど、見えないものをどう出現させるのか。そこはやっぱり重要な問題です。だから僕の場合は電波って言い方をしますけど、そういうことをいつも考えてやっています。今回は僕自身としても、すごく大きな機会になったし、ある種メルクマールというか、僕のこれまでの作品や今後続いていく流れの中でも、非常に重要なアクションの仕方になったと思います。

松井
僕は2000年代前半、美術館で詩を発表する機会があって、呼ばれるとしばしば言われたのは、空間を埋めてくださいっていうことだったんですね。しかし文学作品だとすれば、文字のサイズなんて、作品を考える上で関係ないわけですね。僕にとってはこれはすごく違和感のある出来事でした。そうこうするうちに、美術館で映像が展示されることも増えて、ブラックキューブに映像が並んで、音が反響しあってしまうような、なんともアグリーな状況も生まれてます。先ほど話題にでていたように、デジタルカメラはいつのまにか映像が撮れるようなってますし、スマートフォンだって同様ですね。そんな状況ですから、美術家も映像作品を気軽につくるようになっていると思います。それがうまくいくケースとそうでもないケース両方あるように、個人的には思っています。
どうでもいい作品が、馬鹿みたいに空間を埋めていることもあれば、やはり繊細に展示されることもあるわけですね。また、美術家の映像作品と、動画共有サイトでバズっているような映像との境界が曖昧になる場合もあります。そういった意味で、作品概念ということも変化しつつあります。これは作家だけに任せる話ではなく、キュレーションする側からもこの問題を意識すべきことだろうと思います。
もちろん、美術館のなかでの展示空間とメディアをめぐって、さまざまな想像力が展開することを期待するわけですが、今回の印象では、二人の作家の似ているところと異なるところがとても強調された感じで、偶然ながら見出された、この通路の4面のスクリーンの枠組みは、アニメーションの作品ではじまり、今回の二人の展示を通して、例を見ないバリエーションを生み出しているように感じます。このあとはアピチャッポンが制作すると聞いています。今後は、ここで作品を上映したいという作家も現れるかもしれませんよね。そういうところまで、表現と公共空間を市民のものとして運営していけたら、作品も増えるし、場所の意味も生まれていくと思うので、さまざまな観点から見守っていけるとよいと思います。本日は長時間にわたって、ありがとうございました。今後も、西2丁目地下歩道で発表される作品に注目していきたいと思います。

※2 フランスの著述家・映画作家。
後述のシチュアシオニスト運動を
率いた人物。

※3 札幌市民交流プラザ1階にある
カフェ「MORIHICO.藝術劇場」のこと

◎ 西2丁目地下歩道での作品の上映スケジュールや最新情報はこちらをご覧ください。
https://sapporo-community-plaza.jp/archive_nishi2chome.html