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ひと・もの・ことをつなぐ。創造性の光をむすぶ。


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ひと・まち・アートを語り合う SCARTS CROSS TALK

札幌にゆかりのあるアーティストや、
文化に関わる活動をされている方を
ゲストに迎えて行う、
札幌市民交流プラザスタッフとの対談。
ゲストの活動の紹介とともに、
札幌の文化芸術活動のいまとこれから、
そして、札幌市民交流プラザに期待される
役割について語ります。

ここから本文です。

本稿は、2021年9月5日に行われたトークイベントの内容をSCARTS CROSS TALK記事用ダイジェスト版として編集しました。
※作品画像撮影:リョウイチ カワジリ

樋泉
ただいまより、「遠い誰か、ことのありか」展のアーティストトークを始めます。この展覧会は、昨日9月4日にオープンする予定だったのですが、緊急事態宣言の発令に伴いまして、大変残念ながら開催を見合わせている状況です。4名のアーティストには予定通り作品のインストールを行っていただいており、今日は、クワクボリョウタさんと岡碧幸さん、やんツーさんと大橋鉄郎さん、二組に分かれてのトークを行います。
トークに入る前に少し、「遠い誰か、ことのありか」展の概要についてお話しさせていただきます。コロナ禍で、人と人とが直接会うことを極力避けるように求められる状況が、随分長い間続いています。テクノロジーを使って遠隔にいる人同士がコミュニケーションをとることが日常化していて、例えば、仕事の場面でも、わざわざ出張に行かなくても打ち合わせができたり、利便性や効率性、経済性という観点では、テクノロジーのポジティブな側面がより見えてきています。ただ一方で、人と人とが直接会うときの、何気ない身振りや、ちょっとため息をつくなど、生身の体がそこにあって空間を共有しているということが、コミュニケーションにおいてどういう意味合いや良さを持っていたのかということに、改めて気づかされる場面を皆さん経験されているのではないかと思っています。
このような状況が本展の企画の背景にあり、テクノロジーを作品の中で扱っている4人のアーティストにお声掛けをしました。テクノロジーそのものにフォーカスするのではなく、テクノロジーを批評的に用いながら、作品を通して、人と人、人とそれ以外の生物や情報など、広い意味での「他者」との関わり合いが起こる場をつくりだしたいというのが本展の趣旨です。展覧会タイトルの「遠い誰か」という言葉は、文字通り物理的に離れている誰かではなくて、近くにいるけれども距離や隔たりのある存在、近くにいながらも見えていないものなどを意味しています。「ことのありか」には、そうした他者との関わり合いや関係が生まれてくる場所という意味を込めました。

1

「リモート時代に足りないもの」をヒントに
新しい関係性が生まれる

樋泉
ここからは、アーティストのお二人にお話を伺っていきます。クワクボリョウタさんには、本展と同時開催の++A&T(プラプラット)05「キョウドウ体/syn体」ワークショップ成果展にも参加していただいていて、「遠い誰か、ことのありか」では、《おしくら問答》(作品1)と《じぶんたぶんにぶんふかぶん》(作品2)の2つの新作を展示していただいているんですけれども、簡単に自己紹介と、出品作品のご紹介をお願いします。
クワクボ
クワクボリョウタです。札幌では何回か展示をしていまして、2017年の札幌国際芸術祭では、円山動物園の中で、鉄道模型とLEDと日用品等々を使ったインスタレーションを展示しました。このときは、札幌に来たときの第一印象として、屋根の形が他の都市と比べてバラエティーに富んでいるところが非常に特異的で、その屋根の形を、いろいろなモチーフに織り交ぜて風景を作りました。

今回の「キョウドウ体/syn体」は、「++A&T -SCARTS ART & TECHNOLOGY Project-(プラプラット)」という事業で、SCARTSと札幌の中高生たちとコラボレーションしたプログラムです。自分の腕にセンサーをつけて、遠隔で操作できるロボットアームを一人1本持って、4人集まってその4本のアームをそれぞれ操作することで4足歩行をしようというワークショップを行いました。
「遠い誰か、ことのありか」では、NTTコミュニケーション科学基礎研究所の渡邊淳司さんと定期的な対談をして、そこから着想を得た《おしくら問答》を展示しています。これは対話を、言葉や情報のやり取りではなくて、触覚の押したり、押されたりという関係で捉え直した作品です。
もう一つは、《じぶんたぶんにぶんふかぶん》というソロ作品です。モチーフにした「こっくりさん」は、2人や3人でコインの上に指を置いて、文字を選ばせるという遊びですけれども、今回はコンピューターと体験者が1対1で一緒に文字を選ぶものを作りました。

リモート活動が多くなった昨今、いろいろな発見もあれば、ストレスや不満もあって、特に僕が考えたのは、無目的に集まるようなところでのふれあいがなくなったということです。例えば仕事で、トピックが決まっていることをZoomで話しましょうというのはすごくやりやすいのですが、「Zoom飲み」などは、最初はやったけれど全然面白くないことに気づきました。なぜ面白くないのかと考えていくと、やっぱり無目的とか、何か縁があって会ってしまうことで起きる何かがいま足りないなと思っていて。そういうものを単に取り戻すというよりは、ひとつのヒントにして、これから自分たちが物事や人と関係していくときの新しい態度が何か生まれるんじゃないかというモチベーションで、制作に取り組んでいました。

「キョウドウ体/syn体」のワークショップでは、「おみこし」がヒントになりました。「おみこし」を町内の人たちと一緒に担いでいる時は、その担ぎ棒を通して他の人の身体を感じられますよね。一つのタスクを一緒にやったプロセスがあるおかげで、何となくその町内の「共同体」のようなものが築かれる。
一方で例えば、SNSにおける「何々に賛成・反対」というような議論は、項目を増やすほど分断していくわけで、正しい・間違っているとか、賛成・反対という軸だけで物事を括ると、人が一緒になることは難しい。「おみこし」は賛成の人も反対の人も一緒になって担ぐわけで、そういう、たまたま近くにいただけというような理由で、思想や考え、信条を少し超えたところで共同体ができるということがなかなかないので、今回は、一つのロボットを歩かせることを通して、何かできないかと考えました。
「おみこし」に当たるのが「syn体」で、ワークショップは対面で行ったんですけれども、「syn体」そのものにはみんな触れないので、ある意味リモートなんです。離れたところで4人がそのロボットを動かせるようになれば、Zoom越しでも可能かもしれないし、リモートであることは、対面であることと連続性があるように思います。今回のワークショップは、技術的困難はまだありますが、内容的に、4チームそれぞれがまったく違うアプローチをしてくれているところがすごく面白くて、今後も続けたいなと思っています。

(作品1) クワクボリョウタ×渡邊淳司
《おしくら問答》2021年

(作品2) クワクボリョウタ
《じぶんたぶんにぶんふかぶん》2021年

樋泉
「遠い誰か、ことのありか」の2作品についてもご紹介をお願いします。
クワクボ
渡邊淳司さんとコラボレーションした《おしくら問答》では、渡邊さんと1~2週に1回の頻度で、計6回の対談をしました。渡邊さんは、触覚に関する研究者であると同時に、ウェルビーイングについても造詣の深い方で、悩める私が渡邊先生に自分の失敗談などを話して、それを慰めてもらうような流れになったんですが、論点はやはり「このご時世いろいろあった」みたいなことで、さっきの話とも被りますけれども、人との対話に関して「論破」のようなことでは、実際の人と人のコミュニケーションはうまくいかないよねという話をしたりしました。
あと、ワークショップの企画を考える際に札幌の高校生に「最近、どうですか」とヒアリングをしたときに、自分のちょっとしたしぐさで、友達に自分が調子悪いんだってことに気づいてほしい、わざわざLINEで「いま調子が悪くて」と、言うことでもないから、察してほしい、という話を聞いて。そういう微妙なコミュニケーションの、まだ情報として扱えていない部分について話をしながら、渡邊さんの得意分野である触覚の話に触れた辺りで、渡邊さんが、「人の性格は加速度だ」という話をされて、なるほどと。つまり、何か話したときに、反応が食い気味の人とか、鈍い人とか、自分の期待値とどのぐらい加速度が違うかで、その人の感じ方が変わるんですね。それに対して僕は、アニメーションで「イージング」というテクニックがあって、物が動くコマを割るときに、等間隔で動くのか、目的地に向かってビューンって加速するのか、減速するのかで、物質の感覚や環境の状況が違って見えることを話しました。それが「性格は加速度」という話とリンクするなと。「人と人とのコミュニケーションも、加速度みたいなものでできないだろうか。イージングのようなやり方で、ちょっとモデル化できないかな」と試みたのがこの作品です。
触らないと分からない、リモート時代には適さないものなんですが、3種類の性格の装置がありまして、押したときに返ってくる感じがそれぞれ違っていて、しかも、しばらくやっていると、何か関係が変わっていきます。展示会場にはその導入のアニメーションとして制作を山口レイコさん、機構の設計などは中路景暁さんにお願いしました。

もう一方は、《じぶんたぶんにぶんふかぶん》という作品で、「こっくりさん」をモデルにしています。テーブルの上にある円盤に指を添えると、その微妙な荷重の変化で文字を選ぶことができるんですが、あまり意図的に動かそうとすると、動かなくなるんです。力を抜いた状態じゃないとコントロールできないんですが、一方、機械学習によって得られたおすすめの文字を引き寄せているので、体験者とコンピューターがお互いに「こっくりさん」をやっているような状況になっています。「リカレントニューラルネットワーク」という方法で、文章生成プログラムは北詰和徳さんが作ってくれました。
これは、自分自身がどれぐらい意志を働かせているかということが、非常に曖昧になるような経験で、自分の意志で選んでいるのか、コンピューターが選んでいるのかが分からなかったところで、「他者」としてのコンピューターと自分の境界が分からなくなることもあるかもしれません。携帯の文字入力でも予測変換を使って、どこまでが自分の主体なのかというのは曖昧なので、そのあたりについても興味があって作ったものです。
樋泉
丁寧に説明していただいて、ありがとうございます。制作に至るまでの背景をもう少し詳しくお聞きしていこうと思います。今回の作品は、いずれも「自分」や「主体」というものへの問いかけが含まれているのかなと思っていて、《おしくら問答》は、押し方のパターンによって相手の反応が変わってきますよね。自分の思い込みかもしれませんが、相手が反発することに逆らわずにやっていると、だんだん向こうがやわらかくなってくるような感覚がありました。《じぶんたぶんにぶんふかぶん》も、コントロールしようとすると言うことを聞いてくれなくて、ボーっと触っていると良い具合に文字を選んでくれる。自分を強く出さないとか、自分が何かを無理にコントロールしようとしないということが共通している気がしたので、そこについてお聞きしたいです。
クワクボ
そうですね。《じぶんたぶんにぶんふかぶん》について言うと、例えばネットのおすすめ機能では、その人の行動パターンや思考が分析されて、「この人、これ好きだろう」っておすすめされるわけですよね。世の中、自分の選択や自由意志が分かりにくいというか、他のシステムによって影響を受けていると言えるかなと。ですが、そもそも真空状態で自分の自由意志があるのかも疑問であって、例えば、対話で「相手がこう言ったから、自分はこう言う」というふうに、相手の出方に影響されながら自分の考えや態度も変わっていくようなことがまったくない、自分の純粋な自由意志だけで、出方によって相手は違うことを言ってくるかもしれないというところに興味があります。相手を説き伏せるとか、論破して説得するような関係以外の「意見は結局合わなかったけど、話は楽しくできた」という関係も当然あるわけじゃないかと。「私のおじいちゃん、考え古い」と思っても、孫として受け入れるような付き合いをしたりするわけで。そういう要素が、いまネット上でのリモートの対話では研ぎ澄まされすぎているので、違う要素をテクノロジーで再現できないかなと考えたんです。
樋泉
その「自分」という話で言うと、今回の作品のつくり方も特徴的だったと思います。リモート時代のコミュニケーションというテーマのもとで、「触覚」がキーワードになり、渡邊さんとお話をするところから始めていったじゃないですか。つまり、クワクボさんが「これを作りたい」っていうことが明確に先にあるのではなくて、渡邊さんとのやり取りの中でアイデアが出てきて、最終的に形になったという過程がすごく面白かったです。クワクボさんにとっての自我、自己主張みたいなものの考え方が、今回は作品のつくり方にもあらわれていたように思います。
クワクボ
そうですね。本当に最初はどうなるか全然分からなかったし、渡邊さんとは15年来の知り合いだったんですけれど、長くお話をしたことはなくて、今回対談する中で「渡邊さんって、意外とこういうところがありますよね」みたいなことをこっちから投げると、渡邊さんがすごくチャーミングに返してくるというところがあって、いわゆる「アーティストと研究者がネット対談」というよりも「おしくら問答」している関係だったので、非常に楽しくできました。それでやわらかくなって「まぁ、こういうのが良いかな」みたいな感じになりました。自分一人では絶対にこうはいかなかったと思います。
樋泉
渡邊さんとは1回につき1時間から1時間半ぐらいお話をして、その6回分が記録として残っているんですが、その中から今回の作品につながる部分を抜粋・編集して、皆さんにも見ていただく準備をしていますので、ぜひ楽しみにしていただきたいなと思います。

2

テクノロジーによって生まれる隔たりのシステム、
そのビジョン

(作品3) 岡碧幸
《私たちは壁をつくることができる》2021年

樋泉
クワクボさん、ありがとうございます。続いては、岡さんにも同じように作品のご紹介をお願いしたいと思います。
岡
岡碧幸です。私は札幌出身で、北海道大学の農学部で環境や生化学系のことを勉強した後、ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)という芸術系の大学院で勉強しました。そこでは「インフォメーション・エクスペリエンス・デザイン」というコースにいて、情報を体験するデザインを実験的に作る研究をしていました。農学部からRCAに行くときには、微生物のDNAのデータを音楽にするという謎の作品を作りました。人と人ではない存在、生物や自然現象を組み込んだシステムを構想して、インスタレーションや映像として作品にすることが多いです。
例えば、《ikitoshi》は土を使った作品で、微生物燃料電池の仕組みから着想を得たものです。生物が分解されて土になって、土の中の微生物の働きから電気が作られて、その電気を利用するようなサイクルができたら、社会的な自然の循環ができるんじゃないかなと。土の上には人の皮膚で作られた白いお花がぶら下がっていて、土が電気を発生させると少しずつ動いていく仕組みになっています。
《To handle (A)》は、今年のはじめ頃にさっぽろ天神山アートスタジオで制作した作品で、「風が吹けば桶屋が儲かる」とか「バタフライエフェクト」のような、どこかで起きた小さいことが、遠いところで全く思いもよらない結果を生み出すという言葉がありますが、この作品では、空間の外にある小さい風車が動くと、磁石の動きが部屋の内側に入ってきて、部屋の中にあるオブジェクトが動いたり、パソコンの画面がパチパチと切り替わって、ここではないところの空の映像が見えるインスタレーションでした。

今回の作品《私たちは壁をつくることができる》(作品3)は、2つの映像と、その映像の舞台になった床で構成されています。映像の中には、人とカタツムリとお掃除ロボットの「ルンバ」が登場します。この床の上では、カーペットが4つの空間に区切られていて、物理的障壁はないんですけれど、それぞれにとっての「壁」みたいなものを作っています。人はVRゴーグルをかけていて、右側の映像にはVRゴーグルで見える壁と現実の視点が並んでいます。カタツムリに対しては、畑の害虫を寄せ付けないための「木酢液」を発射しながら進む車が壁を作っていくようになっています。ルンバは、「バーチャルウォール」が赤外線を発すると、そこから先に行かないようになっていて、みんなが近くにいながらも分かれて存在している状況を撮った映像と、その痕跡が残った床を展示しています。
今回、「遠い誰か、ことのありか」という展覧会で作品を作ることになって、最初はコロナの関係もあって、Zoomとか「遠くにいる人が近くにいるような感じがするテクノロジー」に興味があって、それを使って作品を作ろうかなと思っていました。それでルンバの実験をしていたんですけれど、バーチャルウォールの仕組みを知って、「近くにいるけど絶対に混ざらないようにする、関わらないようにする、隔てるためのシステム」というのも意外とたくさんあるんじゃないかなと思って、いろいろ調べていきました。私は、人がテクノロジーを使うことによって、それに影響を与えられてしまうものたちとの関係にすごく興味があるので、害虫や害獣と社会との関係を調べている行動分析学の研究者にもお話を聞かせていただいて、どういう壁を作ったら良いかお聞きしながら、カタツムリなどが選ばれていきました。

樋泉
岡さんの作品にも、クワクボさんと通じるところがあるなと思ったのが、ルンバやカタツムリといった自分以外の存在が、自分とは別の世界を見ているということに対する、鋭いまなざしがあるということです。以前、岡さんが土やその中に含まれるガスのことを調査していたときに、「自分は科学者としての知見でデータに対して喜びや感動を感じられるけれど、その知識がない人にとっては、データは数字の羅列でしかないから、感動を分かち合えるような手法を学びたい」というようなことをおっしゃっていましたよね。そこで、岡さんがアートやデザインという手法を使うことの意味合いをどういうふうに捉えていらっしゃるのか聞いてみたいと思いました。
岡
はい。私は昨年大学院を卒業して、コロナで卒業制作展がリアルで開催できないということが3月ぐらいに決定したんです。本当は6月ぐらいに展示の予定だったんですけど、全部がオンラインになってしまうことになったときに、チューターの方から、実現できなかったプロジェクトを見せる手法を教えていただきました。それは映像だったり、リサーチの過程を見せるというような、建築家がコンセプトを出すときのやり方だったんです。それがすごく良いなと思っていて。科学的に分かったものをシェアするときに、データとしての事実はあるんですけれど、サイエンティストにもその研究を通して自分が何をしたいかというビジョンがあって、そういう、実験や観察から得たデータを組み合わせてビジョンを作るという「表現」の部分で、自分は何かができるんじゃないかなと思っています。
樋泉
今回について言えば、見えない壁をつくることを通して、それぞれ同じ地平に生きているけれども、交わらずに、別の世界、別の情報を受け取りながら生きている存在があるということを、ビジョンとして提示していただいているということでしょうか。
岡
そうですね。そういうテクノロジーが社会にたくさんあって、今回展示した床には痕跡として、ルンバやカタツムリが移動した跡が残っています。誰かにとっての壁が見えないっていうことと同時に、自分が誰にとっての壁を作っているのかも分からないし、その後にどういう結果をもたらしてしまうかも分からないと思います。例えば、コロナ対策でアルコールをたくさん使うようになった結果、実は違うところに影響を及ぼして、誰かにとっての新しい壁みたいなものを作っているんじゃないかというような部分が、俯瞰的かつ集約的に、ビジョンとして見えたら面白いのかなと思って作りました。

3

曖昧になる壁や感覚について、
お互いが感じていること

樋泉
展示ができあがって、お互い作品を見ていらっしゃると思うんですけれども、クワクボさんから岡さんに、岡さんからクワクボさんにそれぞれご質問をいただきたいなと思います。
クワクボ
質問ではないんですが、岡さんのお話を聞いて思い出していたのが、ヨーロッパかどこかで、牧草地帯に棒が等間隔に立っていて、人はその棒と棒の間で行き来できるけれども、牛は出てこられないっていう変な壁があるんですよ。物理的に牛は通れないと思うんだけど、人間にとってはまったく壁じゃないんです。
岡
本当にそういうところから着想しているというか、砂漠で農業をやるときに、水を撒くための「センターピボット」によるランドスケープみたいなところを想定していて。
クワクボ
あぁ、なるほど。痕跡を残したいっていうのはそういうことなんですね。
岡
そうなんです。例えば、いまおっしゃってくださった棒みたいなものが立っていったときに、それがどういう地形を残していくかみたいなところに関心があったので、何かそういう記憶がフワっと出てきてくださったなら本望です。
クワクボ
最近、札幌の市街地にクマが現れたという話を聞いて、それっていままで何かしら壁はあったってことなんですかね。それが何かの状況の変化で、乗り越えてきちゃった。
岡
シカとかもそうなんですけれど、緩衝地帯みたいなところがなくなっているのが結構問題みたいで、私が住んでいるところも、本当に自然のすぐ隣に人が住んでいて、だから、壁がない状態ですよね。
クワクボ
緩衝が必要なんですよね。特に、北海道って自然と都市がかなり意図的に作られているから、隣接しているってことですよね。里山とかだと、人の界隈と自然の界隈がグラデーションになっているところがある。
岡
そうですね。壁でバツンと切り替えられるというのは、テクノロジーができてしまったから起こっているわけじゃないですか。もしかしたら、もうちょっと別の、今回の私の作品みたいに分けるようなテクノロジーができたら、人が山の中に住むこともできるかもしれないですし、どうなっていくのかなと思いました。
クワクボ
実際はレイヤーになっていたりするんですか。例えば、僕の家だと、クモがいたらたまに外に逃がすけれども退治しない感じになっていて、お互いそんなに悪さをしないので、同じ空間に住んでいるんですが、あれはどういうことなんでしょうか。壁なのか、壁じゃないのか。
岡
それはすごく思いました。ロックダウンの中で、部屋で一人で過ごしていると何かこう、虫すらも愛おしくなってくるみたいな(笑)。そこには壁はないですよね。でも、そうじゃない害虫とかもいるじゃないですか。シロアリだったらスプレーとか撒いたりして。何かそういう、混ざっている状態がたぶん普通というか。そうじゃないことを起こしたときに、別の風景が現れるように思います。

クワクボ
オンラインとオンサイトがいままでぐちゃぐちゃだったのが、通信で新しい壁ができて、そこに僕が今回いろいろ想起するモチーフになったストレスがあるかもしれません。もう一個聞きたいのは、農学をやっていて、インフォメーション・エクスペリエンス・デザインに進まれたのは、さっき樋泉さんがおっしゃってた、データを、自分はすごく生き生きと見れるんだけれども、それをどうやって他の人に伝えるかっていうモチベーションがあって、そこに進まれたんですか。
岡
そういう側面もたぶんあったんですけど、私が行っていたコースは、「情報ってそもそも何なのか」ということを探求していて、情報が何なのかを知るためのデザインみたいなことをやっていて。その農学部での研究の過程で、「私は結局、いったい何を見ているんだろう」っていう疑問が湧いてきちゃったんですよね。そこをもうちょっと知りたいっていうのと、あと、もともとあった表現したいっていう部分が組み合わさって、うまくいったような気がします。
クワクボ
昨日おっしゃっていて印象的だったのは、「テクノロジー」って言ったときに、エンジニアリングに話が行きがちだけれども、実は生物とか、まったく違うジャンルのサイエンスもテクノロジーの一部であって、今回の作品は、まさに人間の認知に関わるVRみたいなものと、生物と、エンジニアリングの三者が混ざっていて、そういう視座があるんだっていうことが非常に面白かったです。
岡
ありがとうございます。
樋泉
では、岡さんからクワクボさんへのご質問をお願いします。
岡
私もクワクボさんの《おしくら問答》をやってみて、手で押したときと、手じゃないところで寄りかかったり、背中でもたれてみたりしたときに、結構、感覚が違って。手で押したときは、お互いに手を合わせて何かやっているようなイメージだったんですけど、寄りかかってみたときは、大きい動物にもたれかかっているみたいな感覚があったりして、全然違うなって。触覚って面白いなって思ったのが、触覚が一度データになると、何の触覚だったかがなくなるじゃないですか。人だったのかもしれないし、動物だったのかもしれないし、何かしらの物、オブジェクトだったのかもしれないなって思って。制作の過程で、触覚とテクノロジーに関して思うところ、発見したところがあったら教えていただきたいです。
クワクボ
今回はその辺り、渡邊淳司さんにかなりおんぶにだっこというところもあって、最初に触覚の表現について膨らんでいた妄想が、まだ実現できてない感じです。渡邊さんは、振動スピーカーみたいなものを使って、まな板の上でトントントンって切る振動の微細なテクスチャをリモートで伝えることなどをやられていて、今回は、押す、押される関係で、そういう感触の解像度を求めていたんですけれども、ちょっとまだ難しくて。渡邊さんと話していたのは「間接的な触覚」、例えばここにスポンジがありますけど、これを指で触れるんじゃなくて、棒で突っついているみたいな感じを目指していたので、もう一回、物理的な、実際の物を使ったものを作ってみても良いかな。触覚はすごく繊細というか敏感なので、モーターの振動みたいなのも感じてしまうし、それを無視することはできないので。
岡
あと、触ることでコミュニケーションするって考えたら、言葉がない人、言葉をしゃべれない人、いろんなモノとの対話みたいなものが、もしかしたらできるのかなって、ちょっと思いました。
クワクボ
昨日、岡さんが手で押した後、腰とかで押しているのを見て、その手があったかって。僕は、意思を表示するものとして「手」という器官を意識したとこがありましたが、それ以外の部位も当然あるわけで。例えば、ネコを撫でてるときに、ちょっと乱暴にすると、猫も乱暴だなって思う。そこの共通のコードは何なのかなっていうのは、たまに不思議に思ったりして。痛いとかじゃなくても、相手がぞんざいに扱われたような反応を示すとか、そういうことを日々考えています。
樋泉
お話は尽きないですが、お時間になりましたので、1回目のトークはここまでにしたいと思います。クワクボさん、岡さん、ありがとうございました。